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別府温泉概説

温泉観光への目ざめ

明治中期は、別府、浜脇両町が町制をしき、それぞれの立場から温泉行政に取り組んだ時期だった。

一方、民間においても浴場経営に対する意見が積極的にのべられた時期であった。

明治二十一年、佐藤蔵太郎の「別府温泉記」に、

  • 一、遠来の患者疲労したるときは、暫時休息して、然る後、入浴すべし。決してにわかに入るべからず。
  • 一、最初の一週間は一日二回、爾後は三回とし、入浴は十分間より二十分を間を過すべからず。
  • 一、虚弱なる患者及び老人小児は、初より数回入浴すべからず。又、長湯すること勿れ。
  • 一、入浴はなるべく静かにすべし。大声又は湯中を潜などすべからず。
  • 一、湯治中は、大酒暴飲を慎み、又飲食後は必ず散歩して、直に臥床に就くべからず。(以下十項目略)

など十五項目が示されていた。

明治二十年代になると、別府地方の浴場はかなり整備されてきた。

明治二十一年(一八八八)加藤賢成の「豊後名勝案内」を見ると、

  • ○不老の湯は、市街の西の方田の中にあって、構造は楠湯と同じで、そばに人工の温泉滝がある。
  • ○楠湯は、石で浴場をつくり、男湯と女湯の二池に分けられており最も清潔である。温泉は大きな楠のわきより湧きだしているので「楠湯」と名がつけられ、浴室は瓦屋で板塀があるので、雨風寒暑の時もさしつかえはない。
  • ○西の湯は、浜脇町の中にあり、浴室は瓦葺きで浴場は石で造られ、浴池の底には細沙をしき、湯は沙のあいだより湧き出している。浴湯は九カ所あり、温度は同じではない、人々は好きなようにはいってよい。という意味のことが記されている。

これによっても、すでに明治二十年代初期には予想以上に浴場の整備がすすんでおり、当時の為政者がなみなみならぬ意欲をもって浴場行政にとり組んでいたことがわかる。

その結果であろうか、この頃を期として入湯客も増加し、設備の充実が追られることになった。

明治二十五年(一八九二)頃になると、別府浜脇両温泉場の名は全国的に知られるようになり、同年の『諸国温泉一覧』には、浜脇温泉が前頭四枚目に、別府温泉が前頭七枚目にランクされた。

なお、霊潮泉の新築がなったのは、この年である。

明治二十六年(一八九三)四月十八日には、別府、浜脇はそれぞれ町制をしき、両町競って温泉観光にのり出した。

しかし同二十七年に日清戦争が勃発し、一時、観光開発は小康状態となった。

しかし、その後、明治三十年(一八九七)には浜脇薬師温泉の落成。

同三十五年(一九〇二)には竹瓦温泉の改築。

翌三十六年(一九〇三)には不老泉の改築がおこなわれた。

その間、三十三年(一九〇〇)には別大電車が開通し観光客誘致に一役を買った。

なお教育の面では、同三十五年(一九〇二)に工業徒弟学校が創立された。