大正期における有名温泉の整備は、大正十三年(一九二四)の市制施行を期として著しく進展した。
これは別府(旧別府)周辺の温泉場にも大きな刺激を与えた。観海寺・堀田.鉄輪.明礬・柴石・亀川などの温泉場でも、着々と観光客を対象とした構造そのための改修や新築をすすめる傾向となった。
昭和に入ったとき、別府は中外産業博覧会の準備に忙殺されていた。つまり、博覧会を意識して各浴場の整備をしていたのである。
ところが、別府周辺の各温泉場では、博覧会を意識しながらも、それぞれの独自の立場で、その発展を期待しながら浴場の整備をすすめていたのである。
その主なものを記してみると、
などがあげられる。
昭和二年にできた鉄輪の「ひょうたん温泉」はその特異な建築様式が人々の注目をあび、入湯客が急に多くなったという。しかし昭和二十年五月、「米軍機の目標になる」との理由で撤去されてしまった。僅か十九年のいのち、まことに惜しい建て物であった。
つぎに、同年改修整備された亀陽泉は、亀川温泉場の代表的な浴場であり、その面目を一新した。
昭和三年(一九二八)、〈中外産業博覧会〉の年に完成した浜脇温泉は、浜脇東温泉(弦月泉)と浜脇西温泉(清華泉)を合併して改築された。建物は別府市公会堂と同じ近世オランダ式の鉄筋コンクリート建築の浴場で、その規模と設備は全国に誇り得るものであった。
なお、この年、石垣村では、餅が浜温泉を開設し公衆の用に供した。
いづれにせよ、昭和三年という年は、別府市にとっては、内外ともに多忙な年であった。のみならず、一方では別府発展のために意義ある年でもあり、また、観光施策に自信を得た年でもあった。
ついで昭和六年(一九三一)には、霊砂泉の開設竣工、九州大学温泉治療学研究所が開設された。また、海門寺公園・別府グラウンドなどが新設された。まさに飛躍の年であった。
明けて昭和七年(一九三二)には野口温泉が創設された。そのころ市内には、
などの公設浴場があった(昭和一〇、二「市勢要覧」。それらの浴場中、市費によつて管理運営されていたものは、浜脇温泉・楠温泉・竹瓦温泉・不老泉・砂湯温泉.霊潮泉.田ノ湯温泉などであった。
明けて昭和十年(一九三五)は、別府市にとって飛躍の年であったのである。
九月には亀川町・朝日村・石垣村が別府市に合併し大別府市となった。
これまで、それぞれの市町村でおこなわれた温泉行政は一本化され、同十一年(一九三六)四月二日には(市設温泉規程)が改正され、市費を以て管理維持すべき温泉浴場として、浜脇温泉、楠温泉、竹瓦温泉、不老泉、砂湯温泉、霊潮泉、田ノ湯温泉、海門寺公園温泉、浜田温泉、亀陽泉、亀陽泉砂湯、四ノ湯温泉、御夢想温泉、柴石温泉、霊潮泉蒸湯、観海寺桜湯温泉、復興泉、蒸風呂温泉、上渋ノ湯温泉、下渋ノ湯温泉、上熱ノ湯温泉、望洋泉、望潮泉、堀田温泉、堀田東温泉、観海寺高等温泉、北町温泉、下熱ノ湯温泉、鶴寿温泉、地蔵温泉、今井温泉、薬師温泉、などが定められた。規程の改正が終わると、市は直ちに老朽浴場の改修や改築にとりかかった。最初に改修されたものは、鉄輪蒸湯と天然砂湯であり、改築に手がっけられたものは竹瓦温泉であった。
これは、翌年度におこなわれる博覧会に対応するための施策の一つでもあった。
昭和十二年(一九三七)には、〔国際温泉観光大博覧会〕がはなばなしく開催された。
博覧会は、昭和十二年三月二十五日から同年五月十三日までの五〇日問、別府公園一帯一二万五、○○○平方が(三万八、○○○坪)の敷地で開催された。
この写真はその時のポスターであり、当時の別府市が博覧会にかけた意欲を知ることができる。
昭和十二年といえば、小野廉市長時代であり、大陸の戦局は拡大の一途をたどり、大陸関係者の来別は多かった。
大陸の戦局拡大の中で、なぜ博覧会が開かれたのであろうか。その理由について昭和四十八年版『別府市誌』には、鉄道省国際局では、「日本の真価を内外に宣揚し、国際観光地として観光事業の経済化を図るL動きもあり、さらにまた、昭和十年九月に、亀川、朝日、石垣の一町二村が別府に統合されて、一大温泉郷の建設がすすみ、七万の固定人口をもつことになったことなどから、これを記念して(中略)開催されるに至ったのである。
と記している。そして、この年に、竹瓦温泉の改築が完成する(竹瓦温泉の条参照)。
このころの西欧人の来別としては、ヘレン・ケラー女史や、ヒットラーユーゲントの来別がある。
ヘレン・ケラーは明治十三年六月二十七日、アメリカのアラバマ州カスタンビアに生まれたが、生誕一年九ケ月で三重苦を背負う身となるも、屈せず努力し、聖女と呼ばれた。
女史は、昭和十二年、五七歳の時に来日、不幸な人達を救済するために各地で講演をした。大分地方には同年六月に訪れた。別府では亀の井に宿泊。多忙な講演旅行であった。
だが、その合い問をぬって別府観光地の見学もした。この写真は、鉄輪海地獄を訪ねたときのもので、別府市にとっては貴重な写真の一つである。
昭和十三年(一九三八)になると、西欧人の来別はほとんどなくなった。しかし十月二十三日にはヒットラー・ユーゲントの一行二十名が来別した(ふるさと写真集「別府」。
一行二十名は、ナチスの軍服姿で来別、市民多数の歓迎を受けた。この日、別府中学校全校生徒は流川通りで歓迎し、さらに翌二十四日歓送した。なお、この日、市内の高等女学校・高等小学校・小学校の児童生徒も歓送迎に出席した。
このころから大陸における戦局はしだいに拡大し、それにともなって別府に訪れる勧光客は減り、浴場も次第にさびれていく。
しかし、日本と中国大陸との関係は一層ふかくなったため、大陸からの来別者はかなり多かった。
このような状況の中で、市は柳温泉の改修(昭和一五年(一九四〇))や、永石温泉の改築(昭和一六年(一九四一))等をおこない、さらに同十六年(一九三九)には(別府市市設温泉規程)を改正、告示し、温泉浴場経営の統一をはかった。この改正温泉規程には、
と記された。
なお、このころ浴場維持のために賃貸されていた市有温泉は、不老泉家族湯ならびに上等湯浜脇温泉家族湯ならびに上等湯田ノ湯温泉上等湯柴石温泉附属建物四ノ湯温泉建物四ノ湯温泉附属建物観海寺高等温泉北町温泉観海寺復興泉などであり、賃貸期問は満三年で、競走入札、または指名入札で貸し与えていた。
昭和十六年(一九四一)十二月八日、第二次世界大戦が始まり、日本は米英をはじめとする国々と戦争状態に入ったため、外国人の来別は皆無となった。
別府に訪れる者は、国内の加療軍人や、一般療養客だけとなり、温泉場は次第にさびれていった。
温泉浴場については、その維持がやっとであった。